コミックス83巻のSBSで、
第788話「私の戦い」の中で、ヴィオラとドフラミンゴはどうしてお互いを「ドフィ」「ヴァイオレット」と呼び合ったのでしょうか?あの時、二人は何を思って、考えていたんでしょうか?
という質問が寄せられ、それに対しオダッチは
これには深い裏設定があるけど教えられない。かなり大人な物語なので、少年漫画ONEPIECEでは描写しない。と説明している。
大人の皆さんは妄想してみてください。と付け加えられているので、それでは・・・と、思う存分妄想を垂れ流してみようか。
・・・というか、これは788話と789話のレビューの際に、僕が濃厚な妄想を書き連ねたものからの抜粋なので、うちのサイトを長く愛読してくれている読者の方には、一度読んだことがある文章になってしまうことと、2週にわたって書いた文章なので、一部重複しているのは、ご愛嬌でよろしく。
父を、姉を、姪をそしてドレスローザ全国民を裏切る形で、屈辱を飲み込んでファミリー幹部として10年間生きてきたヴィオラのケジメ。
ファミリーが崩壊するというのに幹部だった私が…何のケジメもつけないなんて、ムシが良すぎるでしょ…
ヴィオラは自らの役割をもってそこにいただけで、ファミリーに心を許したことは一度としてない。
彼女の立場を考えれば、彼女ひとりがそこまで気負う必要はなく、酌量の余地はいくらでもある。
しかし、だからといって、それをただ許され、今後の人生を生きることはできなかった。ヴィオラには「ヴァイオレット」としての10年間の人生と完全に決別する必要があったことが、ドフラミンゴとの短い会話から伺える。
直前までヴィオラはドフラミンゴを「ドフラミンゴ」と呼び、ドフラミンゴもまた、ファミリーを去った彼女をもう「ヴァイオレット」とは呼んでいなかった。
そこへきて、覚悟の呼びかけが「ドフィ」そしてそれに呼応するかのように「情熱的だな…ヴァイオレット」・・・である。
これは二人が個人的に密接な関係であったことを示唆している。
他の幹部たちは戦士として国民から憧れと尊敬を集めている中、彼女だけは「踊り子」として国民に周知されていた。「殺し屋」という職業柄、本職で一般人に有名になることはあるまいが、あきらかに他の幹部とは扱いが異なる。
また、彼女は直属の部下たちから「ヴァイオレット様」ではなく「姐さん」という、特定の職種において高位の女性を呼ぶような呼称で呼ばれ、「若」ではなく、ファミリー結成以来、30年来の仲である最高幹部だけが呼ぶ「ドフィ」という愛称でドフラミンゴを呼んだ。
ヴィオラが「極道の妻」的立場であることの証だ。
かつてドフラミンゴは、ヴィオラの「ギロギロの実」の能力欲しさにヴィオラをファミリーに取り込んだ。かたや、ヴィオラは父王の命と全国民の生命財産を守るためにその身を差し出したとはいえ、暗殺者にまで成り下がったことには理由があるはずだ。
ヴィオラはその能力を、日々、望まぬことに使役され、単に虜囚の身であるよりも「その立場を利用するべき」と考えたことは、想像に難くない。
反抗せず、ドフラミンゴの信頼を獲れば、いざ反攻作戦に出る際に役に立つ情報や、うまくすればドフラミンゴのアキレス腱を握ることだってできるかもしれない。
「魂だけは売り渡すまい」その考えを胸に、協力者としてファミリーの深部へ入っていったのだ。
ドフラミンゴの信用を得るために、色仕掛けなどもしたかもしれない。
いや、したのだろう・・・多くは言うまいが、今回の二人からはそういう淫靡な臭いが漂ってくる…
かくして、ヴィオラはヴァイオレットと名を変え幹部にまでなった。そうして、より深い信頼を得るために、ファミリーの悪事にも積極的に加担した。しかし、その能力ゆえ、腹黒く自らの保身しか考えないゲス共の思考ばかりを読むうちに、次第に人間への信頼、未来への希望を見失っていったヴィオラ。
麻痺というのか、洗脳というべきか、ヴィオラの日常はファミリーの「事業」が是となってゆく。そうした日々を送る中で、ドフラミンゴの底知れない悪のカリスマにわずかでも魅了されなかったと言い切れるだろうか。
心の底からドフラミンゴを憎みながら、一方で、彼女はドフラミンゴに魅せられていたのである。そうでなければ、一国の王女ともあろう子女が、殺し屋にまでなったことの説明がつかない。
ただ能力を提供するだけでも生命は保証されたはずなのだ。
自我を見失わないために、自らの行いを正当化しようと心を傾けた結果、真に国を憂いドフラミンゴを憎み続けることが、今やリク王家を憎んでいるドレスローザ国家・国民のために本当になるのか、疑問をいだいたこともあるだろう。
その麻痺した感覚は、サンジの「一点の曇りもない下心w」によって「人間まだまだ捨てたモンじゃねぇ」と我に返らされることとなるのだが、ヴィオラがヴァイオレットとして過ごした10年という年月、ドフラミンゴを心の拠り所としていなかったと、なぜ言えるか。
今、ヴィオラはその過去に決別しようとしている。
ファミリーが崩壊する今、つけるべきケジメ。それはまさに「今」しかつけることができないケジメなのだ。
昼ドラも真っ青な、思わぬ愛憎劇に飛び火したワンピ。
オダッチのひきだしの多さに脱帽です。
〜〜〜〜
ドフラミンゴとヴァイオレットの”大人の関係”について書いて一週間が経過した。
ワンピの考察や感想を書くいろいろなサイトを見ていると、同じように感じた人もたくさんいたようで、しかしながら、反対に「それは無いわ」「考えたくない」という意見も多数見られた。
僕の考えは基本的に今でも変わっていない。
本人が望んで”そう”なったとは限らないし、ふたりが「恋人」だったとは僕も思ってはいない。
「大人の関係」だったのだ。
ヴィオラはギロギロの能力を、父王の命と引き換えに提供するとしてもファミリーにまで入る必要はなく、ましてや「殺し」に手を染めるには、そうならざるを得なかった経緯が必ず存在する。ヴィオラは、それはもう様々な逡巡や葛藤の末に、ファミリーの幹部になったに違いない。
亡き姉スカーレットや落ちのびた父リク王、そして、今なお全国民の怨嗟の的として晒し者にされているレベッカを裏切る行為に違いなく、それでも彼女には、逆賊の汚名を着ようとも、幹部になることで成し遂げなければならないことがあったのだ。
ファミリー内の信頼を得るために、悪事にも積極的に加担し、ギロギロの能力で、悪党どものクソみたいな思考ばかりを連日読み、人間に希望を見出せなくなるには、10年という時間は十分すぎただろう。
自らの能力ゆえに、真意を悟られることの恐怖に必要以上に敏感だっただろうし、より頑なに心を閉ざし、感情を「無」にして幹部の任務をこなしてきた。
しかし「私にはやらなければならないことがある。」「ファミリーに心を許したりなどしない。」と固く心に刻みながらも、犯罪行為や、罪もない人々を傷つける行為を、自分の胸に「仕方ないこと」と納得させねばならないことは、決して理屈や信念だけで抑えられるものではなく、高貴で世間知らずな嬢ちゃんには、精神的にツラいときもあっただろう。
そんなときの心の慰めになるのは、逆に、自分で自分を貶める行為だったりする。
ドフラミンゴに「ただの幹部以上に」個人的に近づいたのは、もちろん狙いがあってのことだ。
しかし、心の底からドフラミンゴを100%憎んでいたなら、彼を「ドフィ」とは呼ばない。
ヴィオラのドフィへの感情、ヴィオラにとってのドフィの存在意義も、10年もの年月の間に当初とは少しずつ変化していった。ただの愛人であれば「若」で十分だし、少々深い仲になったからといって、急に馴れ馴れしくする女をドフラミンゴが許すとも思えない。
ふたりの間には、ヴィオラがドフラミンゴを愛称で呼び、ドフラミンゴがそれを受容するまでの関係が築かれていたことは、もはや間違いない。おそらく、作中でそのことがこれ以上掘り下げられることはないだろう。物語の本筋に関係ないし、オダッチがそれを描きたいと思わないだろうから。
だが、それでいい。
たったこれだけの短いやりとりで、これだけのことを思惟させるストーリーテリングの妙。
オダッチの匠の業に感動し、脱帽します。
そして、勝手ながら、こういう妄想を繰り広げることが、僕には至上の喜びなのだ。