50年後に最悪の魔王として世界に君臨するオーマジオウ
ソウゴ=ジオウを魔王とさせないために力を尽くす者、ソウゴの目覚めと成長を促す者、ジオウとは別の魔王を生み出そうとする者、それぞれの思惑が複雑に絡み合う。
20周年記念にして、最後の「平成」作品「仮面ライダージオウ」が始まった。
腕時計をモチーフとした一見トチ狂ったデザインは、時間を旅するライダーということで…う~ん… ま、そのうち見慣れるだろう。
初見で「絶対に受け入れられない」と感じた、文字をそのまま顔や胸や武器に配置したデザインも、仮面ライダーが児童番組であることを思い出させてくれた、と肯定的に書いておくわ。…一応な。
劇場版での先輩ライダーとの共演は、昨今もはや当たり前になっているが、テレビシリーズでの基本戦術として、過去のライダーの能力を積極的に使って戦うスタイルなのは珍しく、そのスタンスは10周年記念のお祭り作品だった「ディケイド」に極めて近い。
「ディケイド」といえば、昭和・平成通じてそれまで例がなかったマゼンタカラーのボディーと個性的な「かぺぺ」デザインに慣れるのに相当時間を要したが、
かぺぺ
一方で変身ベルトのギミックと音声がめっぽうカッコよく、過去のライダーの能力を使う「ライダーらしくないライダー」として、バランスのとれた魅力を発揮していた。
まぁ、番組としての「ディケイド」は、最終回までに結末を描ききれなかったことで、僕のなかで一気に評価を下げたが、それはまた別の話。
ディケイドとジオウの何が決定的に異なるのか。
あくまで現時点で僕が知っている情報の範囲内ではあるが、ディケイドが、互いに潰しあう平行ライダー世界を渡り歩くのに対し、ジオウは時間を旅するライダーだということだ。すなわち力を借りるライダーが「居る場所」が決定的に異なる。
ディケイドで、平行世界という設定にしたのは、それぞれ自分の世界を存続させるためにライダー同士が反目し、血生臭い殺しあいをする「ライダー大戦」を、子供たち既知のヒーローにさせたくなかったことと、様々な事情でオリジナルキャストを使えない(こちらの方が理由としては大きいかも)ため、「ライダーは登場するがこれらの世界は僕たちがかつて観てきたあの仮面ライダーとは少し違うよ」というエクスキューズを必要としたからだと考える。
そもそも、毎年毎年、人類に対する新しい脅威がうまれては、きっかり1年スパンで新しい仮面ライダーに淘汰されるのを20年も繰り返してきたなんてことがあるわけがない(スーパー戦隊に謝れ)。
物語が明確に継続していたクウガとアギトを除けば、数多の仮面ライダー世界は、別々に存在するとしておく方が自然なのだ。
ところが、ジオウは時間を旅し、過去のライダーの能力を使うらしい。
これは、これまでのライダーたちの物語がすべて同一の時間軸に存在していたということが前提となる。
世界線を跨いで平行世界へ行くのではなく、この世界にかつて確かに存在し、僕たち視聴者も記憶するあのライダーたちが生き生きと活躍する世界に行くというのだ。
現在、05・06話に半田健人と村上幸平が巧と草加役で登場することが分かっている。オリジナルキャストは大歓迎なんだが、ジオウが行くのは彼らの「今」ではなく、彼らが実際に活躍していた「あの時代」だ。年齢のギャップをはじめとして、不安材料がいっぱいだ。
実は、僕はフォーゼが終わってから仮面ライダーを観ていなかった。もう6年も空いたことになる。正しくは、毎年新番組のはじめ数回は観るのだが、すぐに興味を失っていたのだ。どんどん派手で複雑になっていく変身ベルトのギミックや、新フォームが次々と登場しすぎる、あまりにも「玩具ありき」の番組制作について行けなくなった…、と自分では分析している。
ダブルやディケイドのときのように毎回レビューを書く気はないので、肩の力を抜いて楽しむことにする。第01話を観たところ、ジクウドライバーのギミックは派手すぎずなかなか悪くないと思っている。
あ~、それから余談だが:
「ディケイド」では出演が叶わなかった霞のジョーが、ジオウには別名義で出演していることも、決して忘れてはならない、と付け加えておく。
更に余談だが:
タイムジャッカーたちが人為的に作ろうとしている魔王候補を「アナザーライダー」と呼ぶそうな。
アナザーアギトって… デザイン的にあのまま使えたりして… クリーチャーデザインは出渕裕らしいからな。
「魔王はおれひとりでいい…」