今だに光月おでんになりたいヤマトは、おでんの人生をなぞるため、まずはワノ国への見聞を広めることから始めることにした。だが、それを決意したのはつい今しがた。
一緒に行かないことはすでに決め、その意向はルフィたちにも伝えてあるというので、何から始めるかを「今」決めたということなのだろう。
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ヤマトとはそこまで込み入った話をしておきながら、自分たちに別れの挨拶すらないことが尚のこと許せなくなったモモの助は、怒り心頭ながらも、これまでの旅路で深めたルフィとの絆を思い出す。
ちなみにモモの助が飛ばないのは、おそらくまだ飛ぶのが怖いから。
カイドウ戦のときはルフィに焚き付けられたし、国家滅亡の危機を回避するのに必死で高所の怖さを気にする余裕すらなかったものの、いざ冷静になってみるとやっぱり怖いということだろう。緑牛戦でも飛んでなかったくらいだからな。
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遠慮のない言葉でケンカもした。道を示してくれた。対等に扱ってくれた。ピンチを勇気づけてくれた。信頼してくれた。そして、約束通りカイドウを倒しワノ国を救ってくれた。
平和が戻り、自分が今“将軍”でいられるのは、ルフィたちのおかげ。ワノ国復興と開国に向けた重責に今にも押しつぶされそうな8歳児は、突然訪れた別れがただただ寂しかったのだ。
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ロジャーと別れたときのおでんと同じく涙もろいワノ国男児。
「男の別れだ。誰も涙など流さなかった」と、おでんはその実際を文章で偽ることができたが、8歳児の感情の揺れの現実を隠すことはできない。
ルフィもまた、モモの助が心情として寂しいことや心細いことは分かっている。
カイドウがいないことを聞きつけた有象無象が、キリがなく集まってくるかもしれない。やるべきことが山積のワノ国に少しでも安寧を与えたい。
そんなルフィからの餞がこれ。
四皇となった自分の“権威”を利用することをルフィが言い出すとは思えないので、ナミかウソップあたりの提案ではないかと思うが、出来の悪い弟が心配になるエースやサボの気持ちが少しは理解できたかもしれない。
政府も手出しを躊躇する天然の要害とはいえ、再生未熟なワノ国の当面の行く末が、ルフィも心配なのだ。
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魚人島のときは「おれのナワバリにする」と表現したが、ワノ国は「おれの仲間」。思い入れの深さが違う。
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海賊やりたくなったらいつでも迎えに来る。弱虫は乗せねェぞ。
とは、離れていても自分たちがいつでもそばにいることを忘れるな。だが人も国も強くなることを怠るな。というルフィなりの激励の言葉。
もし国家運営がうまく行かなくても最悪の場合の進む道は用意しといてやる、という意味も含んでいるかもしれない。
ヤマトは、ルフィに名前もちゃんと覚えてもらえたし、ワノ国漫遊の次に望めば海に出る手段も確保できた。当面のワノ国のことを託されてもいるようだ。
モモの助は、ルフィたちの友情とこれまでの恩義に報いるためにも、男として将軍として父おでんを超えることを心に誓うだけでなく、それを錦えもんの前で言葉にした。よい侍になるのだな。
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ところで、
平和になったワノ国では庶民の暮らしも徐々に充実し、寄席などの娯楽も楽しめるようになった。
1052話で、これまで悪意をもって捻じ曲げられてきた歴史教育を、子どもたちに正しく教え直す教師として登場した講談師が、舞台からあらためて熱く語る「光月家のお家再興血風録」。
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モモの助が連れてきた賊党たちの手によって「龍王カイドウ」「“妖怪”大花魁」が撃退された様子もそこそこに、物語のクライマックスはオロチの最期へ。
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斬り落とされた最後ひとつの首が伝える恨み節
しかし、われらが日和姫は一歩も退かずに引導の見得を切る。
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さて、実はこの表現が一部で問題視されているという。
オロチが復讐に取り憑かれて凶行に至ったのは、ただ“黒炭”姓だったというだけで幼少期に差別的迫害を受けたからであり、死にゆくオロチに“黒炭”であることをあらためて差別する結末と、それに熱狂する庶民、そしてそれを語る講談師が教育者であることが、ワノ国の差別体質がなんら変化・進歩していないことを表しており、コンプラ的に問題がある(意訳… というのである。
う〜ん、言いたいことは分からないでもない。
まず、差別に至る原因は、オロチの祖父が将軍の跡取り候補をことごとく暗殺した咎である。
前にも書いたことがあるが、
社会の法整備が未発達であれば、犯罪行為と罰則を体系づけることは難しい。
現代であれば、倫理や道徳に鑑みて関係個人の尊厳が守られもしようが、公に「決闘」や「仇討ち」が認められているような社会において、絶対権力者に仇なす不届き者は、禍根を断つためと、同様の考えを再発させない見せしめの意味も込めて、一族郎党が数代先まで処罰されるのはある意味仕方のないことだ。
ワノ国は800年近く鎖国をしてきたため、先進国の合理的で理性的なものの考え方を知らない。ある意味、未開で野蛮なガラパゴス進化を遂げてきた特殊な国だ。
現代のモラルやコンプライアンス意識に照らし合わせてはいけない。これはそういう文化形態の社会において起きた事案だということだ。
教育として娯楽として、またはあらゆる場面で、光月家の正当性と英雄性を強調することは、今のワノ国にとって重要なことのひとつなのだ。そう、プロパガンダと云っても差し支えない。
また、日和が父おでんの決め台詞に韻を踏んで、こんな大見得を本当に切ったかどうかも疑わしい。鼻水垂らしてるところが描かれているから、こういうやり取りがあったことは事実なのだと思う(美談なら鼻水は描写しないでしょ)が、過分に脚色されているはずである。
とはいえ、こんな差別的表現を“良し”として長かったシリーズを締めくくるのは、今どきのマンガ作品としてどうなの?という問題はあるかもしれない。
マンガに没頭しているときにそういう事言われると現実に引き戻されるから嫌だし、そんな外野の意見にビクビクしながら作品を作ってると想像するのも醒める話だ。とりわけコンプラに煩い(らしい)海外の読者から指摘が多いと聞いた。
僕的には クソくらえ である。
まぁ・・・集英社が“良し”と判断したんだから問題ないでしょうよ。
単行本でどうなるのか、ちょっと様子を見ましょうかね。
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なにはともあれ