Cogito, Ergo Sum

我思う故に・・・新館

ONEPIECE 1036「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」

 




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ゾロ vs.キング、決着。
ふたりは自分のボスと運命を共にすると固く誓いを立てたときを、それぞれ思い出す。


キングは、当初は未来に再来するジョイボーイとカイドウを重ね合わせたこともあったようだが、ある頃からは、自分が望む世界の変革をカイドウがもたらしてくれるとは考えておらず、命の恩人のためにその隣で強く在り続けることに自らの存在意義を見出したようだ。
仮に世界が変革されたとて、ひとりではもはやルナーリア族の再興が成されることもなく、恩人の野望に全身全霊で報いることに、キングが己が生きる目的をシフトさせたのだとしたら、ひょっとするとゾロの勝因は「世界一の大剣豪になる」「二度と負けない」を決して曲げない”思いの強さ”だったのかもしれない。

キングの敗北により、大看板と飛び六胞をすべて失った百獣海賊団。カイドウとビッグ・マムという埒外の化け物が残っているとはいえ、戦後のワノ国の在り様や世界政府との取引への影響などもはや戦力の多寡だけで語れない戦様に加え、新世代の勝利が世界中で起こっている“とある事態”の追い風となることを懸念するCP-0は、撤退のタイムリミットを意識しはじめる。

この、新世代の台頭が影響を及ぼすことが危険視される「いま世界中で起きている事件」とは何か。

ワノ国編の間に外の世界で起きた出来事
・世界会議レヴェリー開催
・王下七武海制度の撤廃
・天竜人への宣戦布告をするためにマリージョアに潜入した革命軍幹部が消息不明
・世界会議直後にアラバスタ王国に関する恐ろしい事件
・世界の勢力図を大きく塗り替える海軍特殊化学班「SSG」
世界会議に関連して「死者」が出る事件があり「殺人未遂」もあったらしい。どっちかがアラバスタのことで、残るひとつが革命軍のことだろう。

これらの事件はいずれも世界中を驚かせたが、「世代交代の波、四皇堕つ!」という情報が今さら追い風となる質のものではない。
ここに挙げた事件を受けて、世界中で組織的に、または連鎖多発的に起きたムーブメントのことを指しているような気がする。とにかく世界政府にとってよくない動きが活発化しつつあるということだ。

古い因習を打ち破る新しい勢力の躍進が追い風となるのだとしたら・・・
七武海討伐がことごとく失敗して海軍の権威が失墜し、第二の大海賊時代に突入したとか・・・いや、まさか「民主化運動」?

さて、
そうこうする中にもいたるところで事態の進捗が報告された。


まず、火前坊を追うヤマトは地下武器庫への大扉を突破。この先は火前坊だけっぽいが、壁か床に穴開けて誘爆する前に爆発物をすべて外に放り出すってのは、透視図見た感じでは無理そうだし、ヤマトの氷の息吹を吐く攻撃が実体のない火前坊に通用するのか。



雷ぞう vs.福ロクジュは、互いに「金縛りの術」を掛け合って膠着状態。
かつてライバルだったとはいえ、素行が悪かっただけで忍術のレベルは雷ぞうの方が上だろうと思っていたので、マジ互角でちょっとびっくり。
福ロクジュは雷ぞうより20年余分に生きてるから、管理職になっても修行サボってなかったんだな。



なりゆきで敵対したドレーク・アプー vs.CP-0は、苦戦しながらもCP-0がドレークを下し、ナンバーズのザンキを生贄にアプーはインビと逃走。
自分でCP-0にケンカを売っておきながら、周囲にその相手をさせて自分は逃げるとは、いかにもアプーらしい。



早く逃げたいのは山々なれど、頼みの綱の福ロクジュはまだ来ないし、夢か幻か最愛の小紫と差向いの時間を無下にもできないオロチは「あの曲」を小紫にリクエスト。
「あの曲」とは当然、狐の面をつけて奏でていた例の曲だろう。回想でおでんが自分の葬式に引いてくれと言って泣かされた曲と同じだと思われ、ビジネススマイルで時間稼ぎをしている小紫=日和の堪忍袋が限界突破する可能性あり。
そろそろ傳ジローにバトンタッチだと思うんだけど・・・。



屋上では、ド本命ルフィ vs.カイドウの戦いが佳境に入ってきていて、戦いは苦しくてもふたりともなんだか楽しそうだ。「窮地ほど笑い・・・笑う程に・・・か」

で、僕的にもっとも重要だと思ったのがウソップとサムライたち。
命がけで助けに来たのに「自分はいいからもうひとりを」と言う錦えもんと菊に、


何が潔しだ! 何が責任取ってハラキリだ。お前らの文化は好きじゃない!
おれは鼻水垂たらしても「生」にしがみつく! 見苦しくても生きて、生きて、生き延びたから今生きてんだ!!!

そこに颯爽と現れたイゾウが退路を開いて三人を逃がす。


生きろ!! お前たちが本当に「麦わらのルフィ」を信じてるなら!!

「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」
これは、江戸時代中期の武士の修養書「葉隠」の有名な一節で、潔く死ぬことをもののふの美徳と説いているように引用されがちだが実はそうではなく、「死」を常に意識することで難しいことや失敗も苦とならず前向きに生きられる・・・みたいな、もはや戦国の世とはかけ離れた時代の武士の身と心の置き方を指南する一文だとも云われている。

ここでいう「潔く死ぬ美徳」というのが、錦えもんと菊の心境で、「失敗しても前向きに(?)生きる」というのがウソップの信条だ。
錦えもんと菊の発言は、彼らなりの「信」を貫く行いに違いない。しかし、彼らにはまだこの討ち入りが成功した後のワノ国の世を創っていく義務がある。自分たちが信じるルフィが切り拓く未来に、身体だけ大きくなってもまだうら若いモモの助の後見をするべき者が、自分の満足だけでいま死を選んでどうするのか、とイゾウは云っているのだ。

かく云うイゾウは、おでんの死に立ち会えず、白ひげを目の前で殺され、その復讐戦で手酷い返り討ちに遭った。命をかけるべき場面で何度も死に損ない、今回こそと意気込んで来ていると考えられる。ウィーブルに襲われたかどうかは知らない。

どちらも武士の生き方として間違っているわけではないだろう。後の憂いもモモの助への責任も薄いイゾウは美徳の生き方(死に方)を。まだまだ為すべきことがあるふたりは堅実に生きるべき。その区別もまた間違ってはいない。

ところで、
今回のサブタイトルでもある「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」
これはむしろ、ルフィが海賊王になる行程で同時進行されるゾロの野望「世界一の大剣豪」への心意気。


今回、死の危険を顧みず「刀」の無法に自身をあわせたことで、上を目指す覚悟を新たにしたゾロ。閻魔を振るうに相応しい「地獄の王」になってでも、自らの野望を成し遂げるこれはまさに「修羅」と呼ぶべきものだろう。

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