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宇宙戦艦ヤマトⅢ

 




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2202愛の戦士たち第二章が公開されている。しかし劇場に観に行く予定はない。
どのみち、2202については、新章が公開されるごとにいちいちレビューをするつもりはないので、DVDが出るまでの「ムズムズ」を抑えるべく、過去のヤマト作品を掘り返して観ている僕である。

今日は「宇宙戦艦ヤマトⅢ」を紹介しよう。

宇宙戦艦ヤマトⅢ(スリー)は、1980年に放送された、TVシリーズ第三作。
前年に放送されたTVSP「新たなる旅立ち」までに至る正史の続編ではあるが、同じ1980年に本作放送開始に先んじて公開された劇場版第三作「ヤマトよ永遠に」よりも前に起きた話なのか、後の話なのかは諸説あり、劇中における時系列ははっきりしない。

銀河系を二分し、武力による版図の奪い合いを繰り返す星間国家「ガルマン帝国」と「ボラー連邦」。そのとある海戦で使用された「惑星破壊ミサイル」の流れ弾が、銀河系の辺境までたどり着き、我々の太陽に突入した。
太陽は核融合反応の異常増進を始め、このままでは1年後には地球上に生物が存在できなくなり、3年後には超新星爆発を起こして太陽系が消滅してしまう。
そこでヤマトは、第二の地球となる移住可能な惑星を求めて、銀河系の中心方面へあてのない旅に出る。・・・というストーリー。

本作の見所(同時に本作がつまらない要因でもある)は、「地球征服を目論む敵から地球を護るための旅」というこれまでのパターンから外れ、地球を救う旅に出た先で大規模な星間戦争に巻き込まれる、という図式になっていることだ。

あと1年しかないという緊張感は、第一作のそれをオマージュしており、毎回のエピローグで「人類滅亡まであと〜〜日」というナレーションを、第一作で沖田艦長を演じた納谷悟朗が務めていることも効果を際立たせている・・・はずだが、坦々とした納谷悟朗のナレーションは、新造人間キャシャーンの主題歌の記憶が強すぎて、少しイメージを損なっていると僕は思う。

当初、太陽に突入した惑星破壊ミサイルを発射し、流れ弾を放置したのはガルマン帝国であり、ボラー連邦に属するバース星の旗艦との交流もあり、ガルマン帝国=敵、ボラー連邦=味方となるかと思われた。
しかし、ボラー連邦による非人道的な植民支配に従えないヤマトはボラーと決別。対して、ヤマトを執拗に付け狙っていたガルマン帝国が、実はデスラーが統一したガミラス系の統合国家であることが発覚して両者は和解。それ以後、ガルマン・ガミラスは同盟国に等しい友好国となる。

前作「新たなる旅立ち」で、古代とデスラーは信頼関係を築けていたはずだった。
本作では、けっこう序盤に「ガルマン帝国の総統デスラー」として登場しているのに、ガルマン帝国がヤマトを攻める手を一向に緩めようとしないことに視聴者は大いに「?」と首をひねったことだろう。

2199にも登場したフラーケンの次元潜航艇を駆る戦術にヤマトは為す術もなく、ガルマン帝国の巨大要塞に艦ごと拿捕されてしまう。

そこではじめて「総統!ヤマト捕まえましたで!」


「はぁ!?このダァホ!!誰がヤマトや地球を攻撃せぇ言うたんじゃボケ!さっさと放したらんかぃ!」・・・デスラーは部下が喜々として攻めている相手がヤマトだと全く知らなかった、という酷いオチ。

そこからはガルマン・ガミラスはほぼ完全にヤマトの味方。太陽を科学的に沈静化させる作戦も発案・実行してくれるし、地球型っぽい移住の候補地も教えてくれる。

古代はデスラーに問う。なぜこれだけの科学力を宇宙の平和に役立てないのか。なぜまだ宇宙の彼方まで武力で制圧しようとするのか。デスラーは、それこそが宇宙の平和のためと答える。

これについては古代が傲慢である。(まぁ、旧作の古代とはそういうある種独善的な人物なんだが)
風土風習も法律も国の成り立ちもすべてが異なる他所の国が為すべきことを、自分たちのルールで批判してはいけない。
古代の言葉にもデスラーの主義主張は変わらない。それは最終回を経ても変わらなかった。

「宇宙の平和」という括りで、広く遍く宇宙すべての民に及ぼす意識改革として、本作のメインテーマっぽく掲げられているのが「本当の平和は、たとえ殺されようとも武力を放棄し続ける強い意志からしか生まれない」という、少し曲解すれば憲法9条信者にも通じるような微妙に薄ら寒い主張であった。

どうした!? 西崎義展にいったい何があった?


その主張をするのはマザー・シャルバート。

シャルバートとは、はるか幾千年もの昔銀河系の星々を支配し、愛と平和の恵みを与えた神秘の星。女王を代々女神と崇め超人的な権威をもって宇宙の秩序を守り続けていた。
ガルマン帝国とボラー連邦の武力闘争の狭間で苦しむ人々の心の中には、マザー・シャルバートが今も信仰的存在・救済の女神として生き続けている。

実は、かつてのシャルバートは超化学兵器で銀河系宇宙全域に君臨していたが、武力による権威は真の平和をもたらさないと気づいたシャルバート人は、兵器を永遠に封印したそうである。(この設定は、2199のイスカンダルに継承されたとか。)

しかし現在も根強く残るシャルバート信者は、マザー・シャルバートによる救済を信じ、武装蜂起してまでシャルバート星を目指すという本末転倒な事態まで起きているのに、当のシャルバート人は彼らを啓蒙するでもなく、ただ自分たちが武力を放棄するだけだった。北斗の拳に出てきた無抵抗を貫く村長みたいなものだ。

それには、シャルバートの現代の女神になるべき女王が囚われていたという事情があるのだが、シャルバートの伝説を求めるくせに、女王を流刑にしたボラー連邦も、いったい何を考えているのかさっぱり分からない。

そのシャルバートの唱える平和に、地球代表として勝手に呼応した古代と、「ま、そういうこともあるかもしれん」と一応の理解を示したデスラーは、友情を確認して別れ物語は終わる。

エピローグとして、まもなく「完結編」でヤマトはひと区切りさせるからね。という、作中に込めるには些か相応しくない、西崎プロデューサーからの蛇足メッセージとともに・・・。

本作がつまらない(あくまで私見です)のは、一話一話の到達感が乏しいからだろう。またヤマトと周囲の勢力の関係性が二転三転して、立ち位置がおぼつかないことも挙げられる。

あとデスラーと仲良すぎ。終始デスラーが味方として横に居るなど愚の骨頂だ。デスラーは、ここぞというときに颯爽と現れてカッコよく去るのが良いのだ。

2202のTV放映は、果たしてあるのか・・・。
待ち遠しくて狂おしかったら、また他の作品について書きます・・・たぶん。

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